カレーの庶民

たった今、水とルーだけのカレーをアルマイトの鍋で作ってる途中だ。煮えたら、茄子とキャベツの野菜炒めをそこへぶち込んでやるつもりだが、男の料理だし、丁寧に作るつもりなど初めからまったくない。肉がないので竹輪と蒟蒻を指でちぎって鍋に入れた。白いペンキの剥がれた窓枠に、小さなヤモリが張り付いている。外は雨だ。閉めきった夏の家はスチームサウナみたいになっていて、窓という窓はぜんぶ曇っている。扇風機がひとり淋しく風を送っているが、蒸し暑くて敵わない。水冷式クーラーならリビングに設置してあるが、あいにくと此処は飯を食べる場所だ。そもそも避暑の家にクーラーがあるというのもなんだか可笑しい。それでも冷蔵庫を開けると肌寒い靄が魔法のようにあらわれて少しばかり嬉しくなった。麦茶をコップに注いで、書き物をしているキッチンテーブルの上のノートに目をやる。パーカーの万年筆が開かれたノートの上に無造作に置かれてあり、それは「たった今、水とルーだけのカレーをアルマイトの鍋で作ってる途中だ」と記したばかりだった。水とルーだけのカレーというのは、戦後になって売り出された即席カレーのことなのだが、ほとんどの家庭では、肉と玉葱を炒めたあと人参と馬鈴薯をルーと一緒に煮込んで作るはずだ。冷たい麦茶を飲んで、首にかけたタオルで汗を拭く。カレーが煮えたら、茄子とキャベツの野菜炒めをそこへぶち込んでやるつもりなのだが、私のカレーの作り方は、他所とはずいぶんと変わっていた。とつぜん、雨の音が激しくなってきたようだ。ガラス窓をいきおい伝い落ちる水の向こうに巨きな緑の物影が揺れ動いている。あまりテレビは見ないが、どうも台風が来ているらしい。カレーが煮えたようだ。茄子とキャベツの野菜炒めをぶち込もうとした矢先、ダイヤル式の黒電話が鳴った。受話器を取ると、妻からで「東京タワーにモスラが繭をつくった」という。もうじきそっちも暴風圏に入るぞと言うと、「モスラの繭はどんな風にもびくともしないでしょう」と強い確信をもって言った。勝手にしてくれ、ふとキッチンテーブルの上のノートに目をやると「肉がないので竹輪と蒟蒻を指でちぎって鍋に入れた」という嘘が書かれてある。肉がないだと? 肉ならきのう買ったぞ、牛肉の上ロース。それに缶詰のコンビーフだってあるし、ソーセージだってある。だいいちカレーに竹輪と蒟蒻はないだろう? ふたたび妻が電話してきた、「あなた今どこ?」――葉山、おまえ馬鹿じゃないの。ここにいるって知っているから電話してきているんだろ。そんなことより台風が上陸するらしいぞ。カレーが煮えたら、茄子とキャベツの野菜炒めをそこへぶち込んでやるつもりだが、ノートを見ると「白いペンキの剥がれた窓枠に、小さなヤモリが張り付いている」等と虚偽が記されている。「外は雨だ」とも太字の青いインク文字で綴られていた。嘘だろ、いつから俺はこんな嘘吐きになったんだ。ヤモリなんかいない。外も雨じゃない、またよく読むと、「とつぜん、雨の音が激しくなってきたようだ」という全く事実でない戯言がさも事実であるかのように書いてある。嘘だ、嘘だ、嘘だ! 俺の書くやつはぜんぶ出鱈目で大嘘だ。ここは葉山じゃないし、たった今この俺は昭和時代に建てられた古びた木造の別荘なんかに居ない。「水冷式クーラー」ってなんやねん。「パーカーの万年筆」? いまどきキーボードやろ。もうだれもこの俺の書くやつを信じないし読まないぞ。おっと、妻からの電話だ、「カレーが煮えたら、茄子とキャベツの野菜炒めを入れるんでしょ?」知らねえよ、切るぞ。ガチャッ! なんだか蒸し暑くて敵わない。茹だる頭の中でふたたび電話が鳴った。テレビは、ウソしか伝えていない。東京タワーにモスラが繭をつくったという‥‥「あなた今どこ?」